江戸時代の石高調べ  朝日向猛

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江戸時代には各国郡の状況を調べた「国別郷帳」というのがあったそうです。国立公文書館でアーカイブしてたりしますのでネットで閲覧することもできます(一部)。
なぜこれを調べているかというと、あるサイトで、古代マニアに人気の「邪馬台国」の位置について、大国であれば古代から農業生産が発展していたと考えられるが、九州北部は江戸時代になっても石高が高くない、という指摘をされていたからです。で、へえ~と思い、自分でも調べてみようと思った次第です。

国別郷帳を調べようとしたら、すでに江戸時代の少し前(慶長の頃)から明治までウィキペディア「旧国郡別石高の変遷」でまとめているのを発見しました。そう、このデータが間違っていないことを前提に、以降の話を進めたいと思います。※ウィッ期よむとわかりますが、旧国郡別石高の変遷て、整理するのがかなり大変そうなんです。わたしは諦めて、ウィッ期に頼ることにしました。

太閤検地(慶長3年頃までのデータ)と明治5年の石高データを比較してみたいと思います。単に比較ならば、ウィッキの表をみれば済むのですが、地図にするとわかりやすいのではないかと考えました。arcGISのサイトに律令国の地図(shp)をアップされていたのでそれを拝借してきました。※このshpでは「飛騨」を「飛弾」と表記していたので、そこだけ修正しています。

まずは慶長3年(1598年)の石高です。面積の大きな陸奥国が1位なのはわかりますが、2位が近江国(滋賀県)です。3位が武蔵国。


これが江戸時代を経て、明治5年(1872年)になると次のように変化します。1位陸奥国は変わらないとして、2位出羽国、3位武蔵国。


江戸時代は、河川改修や農地開発が進んだため、各国とも石高が伸びています。しかし、その伸びには差があるのがわかります。


江戸時代の間、反収に大きな変化がない(反収が向上するのは、戦後、化学肥料と農薬が広まってから)と仮定すると、農地開発と灌漑、河川整備が進んだところで石高が伸びたと考えられます。
畿内などで古代から律令の頃までに淡水湖を灌漑ができていたところ(当時の先進地)は石高は増えていません。大和や近江はこの例です。逆に開発余地があったところ、埋め立てが進んだところは増えています。出羽や武蔵や越後などはこの例だと考えます。

とある偉い方が、江戸時代を通じて、西国で石高が増えて(人口が増えて)、それが明治維新に結びついた。と言われているのですが、この図をみると、東北地方も石高を増しているのがわかります。とすると、明治維新は、石高を増やした西国と、同様に石高を増やした東北の争いであったと考えるのがよいような気もします。

ちなみに江戸時代の反収なのですが、前述のウィッキには「享保6年田数 (町・歩)(1721年)」「享保6年畑数 (町・歩)(1721年)」という列があります。これが面積を示しています。石高が米だとすれば田で判断するのが良いと思うのですが、米かどうか判然としないので、田・畑を合わせた面積を用いて、石高を割って、1町当たりの石高を計算してみました。石高は「元禄郷帳石高(1697~1702年) 」を用いています。年次が合わないのですが、そこは割り切りです。


この図をみると、畿内などの先進地の1町当たり石高が高いことがわかります。また、越前国(福井)も高いんですよね。越前は、古代に淡水湖だったところを、我が国でも相当に古い時期に灌漑して、水田化したところといわれているそうです(某サイトより)。

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