紀州徳川家の迎賓館? その2  朝日向猛

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「東京の近代洋風建築」p171から抜粋

Facebookページの投稿をきっかけに、紀州徳川家の邸宅について調べたことを調べたことを「紀州徳川家の迎賓館?」に記載しましたが、その後、追加的にわかったことがあります。

●関東大震災後の紀州徳川家の本邸の移り変わり
関東大震災により飯倉本邸に甚大な被害を受けた紀州徳川家は、代々木上原に本邸を移すも、15代賴倫侯が間もなく死去し、16代当主として頼貞侯が襲爵し、家督財産を相続するとともに、飯倉本邸の処分、美術品等の処分等により家政改革を行いますが、その一方で、当主自らの豪奢な生活が続き、金融恐慌や事業失敗等もあって、代々木上原邸、上大崎邸も処分することになります。この経緯を整理してみました。推測も混じっています。

・大正10年頃、代々木上原の久米民之助邸を取得、この他、代々幡村の大山園を取得
・大正12年(1923年)の関東大震災で麻布区飯倉の本邸に甚大な被害。
・関東大震災後、本邸を代々木上原(豊多摩郡代々幡町代々木上原1177番地)に移す。
・大正14年(1925年)5月、賴倫侯は代々木上原の本邸で死去。
・同年7月、頼貞侯が襲爵、第16代当主に。飯倉邸を処分、分譲。大崎町森ヶ崎邸(後の品川区上大崎(3丁目331)、(「パレス・クィーンエリザベス Villa Elisa」が本邸に。)
・昭和13年(1938年)、代々木上原邸を売却、処分、五島慶太氏によって区画・分譲、上大崎の屋敷(「パレス・クィーンエリザベス Villa Elisa」)を売却、処分、箱根土地株式会社によって区画・分譲
・頼貞候、東京都杉並区天沼三丁目725番地に転居

以下、各邸宅の処分、分譲について、分かる範囲で記載します。

●飯倉邸の処分、分譲
飯倉邸は大正12年(1923年)の関東大震災で甚大な被害を受け、その後、昭和元年~3年頃までに処分、分譲されています。
以下画像はTwitterで「後 備 役 (コロナ脳) Богдан Моршинський」さんがツイートされたものです。これによると、貯金局と中華民局公使館(現、外務省飯倉公館)は先に分譲され、西側の敷地を細分化して分譲したことがわかります。中華民国公使館が永田町から移転したのは昭和3年(1928年)、逓信省貯金局庁舎が完成したのが昭和5年(1930年)です。
西側は細分化して分譲する計画だったようですが、昭和8年(1933年)に麻布尋常小学校(現、麻布小学校)が移転してきています。

 

●代々木上原邸の購入
代々木上原邸は、大正時代に久米民之助 氏が売り出したものを紀州徳川家が購入したようです。久米民之助氏は、日本の土木技術者、実業家。衆議院議員を4期務めた政治家であり、代々木上原に「代々木御殿」と呼ばれた邸宅を持っていました。久米民之助氏は金剛山電気鉄道の運転資金に充てるため代々木御殿を売却したようです。

※久米民之助氏の売却、徳川頼倫侯による購入は関東大震災の頃と考えられますが、詳細不明です。⇒久米権九郎氏の記録では大正10年頃。
迎賓館が大正初の建築だとすると、久米民之助氏によって建てられたものになります。紀州徳川家への売却の後だとすると、徳川家が建てたものになります。久米権九郎氏の記録では大正10年頃だとすれば、久米権九郎氏の邸宅として建てられたことになります。

久米民之助氏の次男、久米権九郎 氏(久米設計創立者)は、明治28年(1895年)生まれで「代々木御殿」で生まれ育ちました。「素顔の大建築家たち 02」には次のように記述されています。

『代々木上原にあった民之助の屋敷は、約四万坪の土地に八百坪の豪華な邸宅をつくり、立派な能楽堂もありました。通称代々木御殿と言われていたそうです。久米先生から子供時代の思い出話として、屋敷の庭で鴨などを鉄砲で撃ったり、クレーを飛ばして撃って遊んだ話などを聞かされ、「へえー」と開いた口がふさがらない思いをしたことがあります。その後、この屋敷は徳川公爵(※注:徳川侯爵の間違い)に譲渡して、目黒に三千坪の土地を購入して鉄筋コンクリート造の住宅をつくりました。その家には、エレベーターが付いていたそうで、当時、住宅にエレベーターを付けたのは日本では初めてだったとのことです。』

なお、久米民之助氏の長女である万千代氏は2歳の時に沼田の五島惣兵衛氏の養女となって五島姓を名乗っています。万千代氏は明治45年/大正元年(1912年)に小林慶太氏と見合い結婚をし、小林慶太氏は結婚と同時に五島慶太氏となっています。


久米民之助邸の頃の外観写真


久米民之助の代々木自宅(上原の邸)出典:プラウド上原フォレストWEBサイト
原典は『久米民之助先生』と記載されています。

●代々木上原邸の処分、分譲
次に、昭和13年(1938年)の代々木上原邸の区画・分譲についてです。
編集: 日本建築学会 発行: 株式会社新建築社「総覧日本の建築第3巻」には、岩佐多聞邸(旧徳川家迎賓館)として記述があります。すこし引用します。

『渋谷区上原の周辺には、江戸時代以来の下屋敷が幾つかあった。現在は日本近代文学館の前田家、雅号の松濤を地名に残す鍋島家、そして上原二丁目一帯を占めた徳川家である。徳川家は昭和初期に、五島慶太を通じて、200~400坪程度に区割りして分譲する。表通りから玄関まで延々と続いていた徳川家の屋敷は500坪足らずを残してすべて分譲され、わずかに木造の母屋と迎賓館だけとなった。戦後、進駐軍の接収が解除になり、現在の所有者の手もとに移った時、家主は当初、この洋館を取り壊そうとした。しかし、関東大震災にもびくともしなかった頑丈さゆえ、解体に20万円かかるといわれて取りやめたという。その後、借家とするために厨房などを増築したが、元は、16畳1室、8畳2室、6畳1室と洋室ばかりの純然たる迎賓館である。F.L.ライトの設計との声もあり、共通点もあるが定かではない。』

この記載を信頼するならば、昭和13年(1938年)の区画・分譲は、五島慶太氏(目黒蒲田電鉄・田園都市課)が行ったこと、区画・分譲されたものの500坪の敷地、木造の母屋と迎賓館は残ったことが分かります。また、戦後、接収を受けたこと、接収解除までに所有者が(おそらく岩佐氏)に移ったことがわかります。さらに、その後、増築をしたこともわかります。

※久米民之助氏が大正時代に売却した「代々木御殿」は、紀州徳川家の所有になりますが、昭和13年(1938年)には、久米氏の子孫によって、再び購入され、売却・分譲されたことになります。

●木造母屋の玄関について
昭和13年(1938年)の区画・分譲では、木造の母屋も残ったとされているが、玄関については移築されたことがわかっている。
五島慶太氏は、昭和13年(1938年)に東横商業女学校(現、東京都市大学等々力キャンパス)を等々力に設立している。開校は翌昭和14年(1939年)である。この学校の校舎は、東京都市大学グループの祖・五島慶太翁生誕130年記念誌「熱誠」によると「校舎もこの背景にふさわしい瀟洒な木造2階建てとし、特にその玄関は代々木にあった紀州の徳川邸のそれを譲り受けて、そのまま移築したのである。」とある。


紀州徳川家の玄関を移築した東横商業女学校の玄関

玄関部分のみであるが、紀州徳川家の代々木上原邸の雰囲気は伝わってくると思います。そして、この玄関の近くに、迎賓館が併設されていたのではないかと想像できます。
なお、この玄関ですが、こちらのブログによると「昭和40年代に老朽化と鉄筋コンクリート時代の波に押されてついに解体された」ということですが、「当時の先生方のお話では、全校生自慢の玄関だった」「「仕方ないこととはいえ、解体は可哀相なことだった」と当時の教職員の方々は、この玄関を我が子のようにおっしゃいます」とあり、大切にされていたことがわかります。

●上大崎3丁目の邸宅について
頼貞氏は東京市品川区大崎に洋風の大邸宅を新築して「パレス・クィーンエリザベス Villa Elisa」と名付けたとされています。この邸宅はジェームズ・ガーディナーの設計といわれ、かなり豪華な建物だったようです。この邸宅は、箱根土地によって昭和14年(1939年)に区画、分譲されたようです。
以下画像はTwitterで「後 備 役 (コロナ脳) Богдан Моршинський」さんがツイートされたものです。
 
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