久米民之助邸(代々木上原)の建築の特徴  朝日向猛

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●西洋館
西洋館は大正初年頃の建築で設計者は不明です。
間口奥行き共に7m程度、面積にして50〜60u程度、平屋建ての小規模な建物です。用途は応接室です。
小屋裏にも床がありますが点検口しかなく日常的に上れるようになっていません。地下もありません。
構造は壁が鉄筋コンクリート(RC)です。小屋組みは木造、床組も木造です。小屋組みの木造トラスは、一部コンクリートと融合している(木骨トラスにコンクリート充填)部分もあります。床組は、コンクリートの礎石にコンクリートの束がのって、その上に木造大引きがのっています。礎石と束は、RCかもしれませんが、詳細は解体調査を待たなければなりません。

○久米邸西洋館のRC壁
壁厚さは150mm〜180o(5〜6寸)、丸鋼(9o程度)を450o(1尺5寸)間隔に立上げ、これに100oマスのクリンプ金網を絡めて芯にしています。
それに下地柱がついて、この柱に木摺を釘止めしているように見えますが、高さ400o程度仮枠の痕跡や半分埋まって柱に絡んでいる鎹などから、柱を先に建て、400oぐらいづつコンクリートを打設するのに合わせ、枠板を柱に留めているようです。

○鉄筋コンクリート造の先行事例(下田邸)
日本の鉄筋コンクリート造建物は、米国で建築士となって帰朝した下田菊太郎氏が1901年(明治34年)横浜市月岡町に建てた3階建て自邸が嚆矢と考えられます(※1996,池田憲和「建築家・下田菊太郎に関する若干の考察−その生涯と業績について−」https://akihaku.jp/publication/report/21/aktpmrep21_057-072.pdf)。下田氏はシカゴで建築士として働き、東宮御所の設計に際して来訪した片山東熊氏らに対して、米国の建築技術の斡旋仲介をしています(※1983,小野木重勝「明治洋風宮廷建築」)。

○鉄筋コンクリート造受容の三経路 1981,堀勇良「日本における鉄筋コンクリート建築成立過程の構造技術史的研究」によると、「2.3鉄筋コンクリート建築受容の三経路」として、欧米からの直輸入、土木家による受容、建築家による受容を上げています。

第1の直輸入は、欧州のアンネビック式、米国のカーン式が紹介されています。アンネビック式は大倉土木が取り入れて、アンネビック社の技術者が来日して指導にあたっていたようです。アンネビック社が日本で活躍していたのが、1910(M43)〜1915(T4)とされています。アンネビック式の特許は認められず独占できなかったため、1910年代に土木家や建築家が部分的に受容していったと考えられます。

1909(明治42)年、澁澤倉庫(清水組施工、田辺淳吉設計)、1910(明治43)年、團琢磨邸書庫、八十島親徳邸倉庫(清水組)、1911(明治44)年、東京芝区の某邸宅の書庫(保岡勝也設計)(※恐らく三菱開東閣の書庫で後の静嘉堂文庫)等は、柱・梁・床・屋根を鉄筋コンクリートで造ったRC造であり、第1の経路と考えられます。 2番目の土木家による受容は、1905(明治38)佐世保重工業株式会社 「第一烹炊所」と「潜水器具庫」 竣工、1906(明治39)年、旧東京倉庫株式会社和田岬倉庫(設計は土木学者の白石直治)等が知られています。土木家による受容は、我が国に伝統的にあった軸組工法の軸組をRCにしたもので、壁などは組積造で埋めていたようです。

3番目の「建築家による組積造の伝統的技術を踏まえた受容」は、遠藤於菟氏が床、柱など部分的にRCにしたを通り入れていった取り組みが紹介されています。1910(明治43年)旧三井物産横浜支店倉庫は床、柱など部分的にRCですが、その隣に翌年1911(明治44年)に建てられた三井物産横浜支店は全体がRC造です。これが日本人建築家によるわが国初の本格的鉄筋コンクリート造といわれています。

1981,堀勇良「日本における鉄筋コンクリート建築成立過程の構造技術史的研究」では、建築家の受容は遠藤於菟氏を代表例にして紹介していますが、これとは別に、壁をRCにした受容の形態があったと考えられます。久米民之助邸西洋館はまさにその例です。無筋コンクリートで壁を造った例には、1882(明治15年)旧長浜駅があります。

●木造日本間(御殿)
高橋箒庵「萬象録」第3巻に次の記載があります。
「邸宅二万坪にて新築は内匠頭片山東熊氏が引受けて造られたる者にて、車寄の如きは宮家其侭にて、大広間は十八畳三間続き、下段の間は敷舞台と為り、床は二間にて高さ一丈七寸あり、純粋の御殿普請中に西洋館あり、要するに宮内省建築技師の理想を発揮して遺憾なし。」

また、久米権九郎氏は「生い立ちの記」において、庭に能楽堂があったことを記しています。

土木学会「古市公威関連資料集 能関連分−資料第3巻」には、古市公威が能楽に親しんでいたことが記されています。久米邸にも敷舞台と能楽堂がありました。古市氏の資料には度々「代々木久米民之助氏控邸」で能を舞ったことが記されています。代々幡村には、山谷、深町、上原の3箇所に久米邸がありましたが、控邸がどこなのかはわかっていません。 上原であれば、ここで古市公威や久米民之助が能を舞っていたことになります。


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