代々木御殿:久米民之助氏邸 ⇒ 紀州徳川家邸 ⇒ 戦後接収 ⇒ 田中百畝氏邸 ⇒ 岩佐多聞氏邸  朝日向猛

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岩佐多聞邸 ※出典:Wikipedia

東京都渋谷区上原2丁目20に令和2年(2020年)9月まで建っていたこの西洋館は、幾つかの文献で紹介されているものの、来歴、所有者、設計者などが不明なままでした。今回、いくつか調べてわかったことがあるので、まとめておきます。

●明治~大正期:久米民之助邸「代々木御殿」として
代々木上原2丁目一帯には、久米民之助氏の邸宅があり「代々木御殿」と呼ばれていました。代々木御殿には、能舞台があり、鴨撃ちができるような広大な敷地だったようです。久米民之助氏の次男、久米権九郎氏(久米設計創立者)は、明治28年(1895年)生まれで「代々木御殿」で生まれ育ちました。「素顔の大建築家たち 02」には次のように記載されています。

『代々木上原にあった民之助の屋敷は、約四万坪の土地に八百坪の豪華な邸宅をつくり、立派な能楽堂もありました。通称代々木御殿と言われていたそうです。久米先生から子供時代の思い出話として、屋敷の庭で鴨などを鉄砲で撃ったり、クレーを飛ばして撃って遊んだ話などを聞かされ、「へえー」と開いた口がふさがらない思いをしたことがあります。その後、この屋敷は徳川公爵(※注:徳川侯爵の間違い)に譲渡して、目黒に三千坪の土地を購入して鉄筋コンクリート造の住宅をつくりました。その家には、エレベーターが付いていたそうで、当時、住宅にエレベーターを付けたのは日本では初めてだったとのことです。』

久米権九郎氏は昭和40年に死去しますが、翌年、昭和41年(1966年)に発行された「久米権九郎追悼誌」では、権九郎氏による「生い立ちの記」が記されています。これによると、権九郎氏は「明治28年12月1日、所は今のワシントンハイツの一隅で、当時は東京府多摩郡代々幡村字代々木字山谷」で生まれています。この家が「大正の初めに陸軍の練兵揚にとられることとなり」久米家は代々幡村内で今日の上原に移転することになったことが記されています。

余談になりますが、権九郎氏が明治28年に産まれたとされる字山谷は練兵揚(後に、ワシントンハイツ、代々木公園)とは違う場所にあります。久米民之助先生遺徳顕正会「久米民之助先生」によると、権九郎氏は戸籍上「明治37年5月5日東京府豊多摩郡代々幡村大字代々木1700番地へ転籍」となっていることがわかります。また、同書には久米民之助氏が代々幡村大字代々木字深町にも広大な邸宅(深町の邸)を所有していたことがわかります。久米権九郎氏は明治28年に字山谷で産まれ、明治37年に深町に転居、明治40年頃には深町の邸が練兵場に指定され、字上原(代々木御殿)に転居したと考えるのが妥当ではないでしょうか。


権九郎氏の「生い立ちの記」には、上原の邸(代々木御殿)について以下のように記述されています。

『山谷からの引越先は今私が住んでいる近くで此処も約四万坪に近い屋敷でした。台湾の阿里山から取り寄せた檜の太い門柱のある門を入るとかなり長い砂利道があって、表玄関につき当ります。玄関に向かって左には四十数間もある長い廊下で、住居棟が連なり、右側は応接間と客間になっていてメインガーデンに面してました。この応接間の一部が、今京浜急行の田中社長宅になっています。客座敷には迫り上げの舞台がついていて、襖絵は河合玉堂先生を初め当時の有名な画家が筆をとっていたので、代々木上原御殿と噂されたほどの豪華なものでした。上野池の畔には笠石が八畳大もある一枚岩の花崗岩でできた雪見燈籠があるので有名でしたが、この石灯籠を運ぶのが実に大変なものでした。(中略)下池がニッ松林の奥にあり、葭切り(注:ヨシキリ?)の声がやかましいほどでした。その一つを、まわりに竹を植え込んで鴨池にしたところ、ニー三年後の冬からはけっこう鴨猟ができました。今思うと夢のような話です。(中略)上記上原の家は大正十年頃私の滞独中に紀州の徳川家に譲渡して、上目黒にエレベーターのついた鉄筋コンクリート造りの家を建て、引き移りましたが、この家はここで父が亡くたった以外に余り印象に残る家ではありません。』

久米権九郎氏の文章によれば、久米家は大正初年に代々木御殿に移転、そのとき、西洋館も建設したことがわかります。なお、西洋館は、昭和30年代には京浜急行の田中百畝社長が住んでいたようです。


左:久米民之助邸西洋館の外観写真(現、岩佐多聞邸) 出典:まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室
原典は「建築写真類聚 住宅の外観 巻1」大正4年11月10日刊 建築写真類聚刊行会編 洪洋社出版
右:久米民之助の代々木自宅(上原の邸)出典:プラウド上原フォレストWEBサイト
原典は『久米民之助先生』と記載されていますが誤りのようです。正しくは『グラフぬまた№13』の「名誉市民久米民之助の生涯」に掲載された写真とのことです。


なんと、久米民之助邸洋館内部写真がでてきました。木子家が東京都に寄贈した「木子文庫」の中にありました。
この写真にある窓や建具が現在でも室内に残っています。また、左の写真、暖炉前にいる人物(右)は久米民之助氏ですね。

久米民之助の長女、万千代氏は1912年(明治45年)に小林慶太氏と見合い結婚をし、久米民之助氏の祖母の実家で旧沼田藩士の五島家を再興します。慶太氏は結婚と同時に五島慶太氏となります。 万千代氏と五島慶太氏との結婚当時、大正初年頃、西洋館が建てられています。(建築年代は不明であるが、東京都「東京の近代洋風建築」には「大正初(1912年頃)」とされています。)長女の結婚に際して、この西洋館を建てた、と思うのは考えすぎでしょうか。五島慶太氏と万千代氏夫妻の長男、五島昇氏は大正5年(1916年)東京市神田区駿河台で産まれたとされています。五島慶太氏が代々木御殿に住んでいたということは確認できていません。

なお、上目黒のエレベーター付きの鉄筋コンクリート造りの家は、木子幸三郎氏が設計したことがわかっています。東京都立図書館には木子幸三郎氏が寄贈した木子文庫があり、そこに、上目黒邸宅の図面が保存されています。

五島慶太氏が昭和34年(1959年)に亡くなった翌年、昭和35年(1960年)「五島慶太の追想」が発行され、久米権九郎氏が追悼文を寄せています。権九郎氏は慶太氏のことを「兄貴」と呼んでいたようです。

『兄貴が、父の家の庭で自転車を習ったことがあります。不器用な上に体が大きかったので松の木にぶつけるやら、石燈籠に衝突しかけるやらの失敗の連続で、はたの者を大笑いさせたものです。おいおい上逹するにつけ、兄弟三人でよく遠乗りをやりました。兄貴は体が重いので、自転車から降りるとマタが痛むのでしょう、その歩く格好といったら、まさに噴飯ものでした。笑うといえば、祖母の喜寿の祝いのときに、庭で仮装行列をしたことがあります。姉が兄・民十郎のモーニングを着てシルクハットを被れば、兄貴は振り袖姿に島田のかつらをかぶって、新婚夫婦を気取ったのです。なにしろ、ヒゲの生えた超グラマー型のお嫁さんで、まったく抜群の出来栄えでした。』


久米邸での仮装行列 左が五島慶太氏、中が万千代夫人
出典:昭和35年(1960年)「五島慶太の追想」


1896~1909年頃(明治後期)、久米権九郎氏によれば、久米邸が代々木上原に移転したのは大正初年であり、年代にすこしギャップがあります。代々幡村、久米邸の名称が見えます。建物の北側に池があり、久米権九郎氏が鴨撃ちをしたというのはこの池だと推測できます。敷地内通路が南に伸びている辺りに正門があったと推測できます。
※青色の線は紀州徳川邸の敷地範囲の推定(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館「住まいから見た近・現代の渋谷」を参考に設定)、面積は約62,500㎡(1万8千坪)GISで計測


大正5~10年頃の地図(時層地図より)
南側正門前には三田用水が流れていた。また、北側には『下池がニッ松林の奥に』あることがわかります。

●紀州徳川家本邸として
久米民之助氏は、関東大震災の前後に経営難にあった金剛山電気鉄道の運転資金に充てるため代々木御殿を売却します。代々木御殿を購入したのは、関東大震災で麻布区飯倉にあった本邸が被災した紀州徳川侯爵家です。紀州徳川家は代々木上原邸を「清和園」と名付けていたそうです。
同家第15代徳川賴倫侯は、代々木上原に本邸を移した後、大正14年(1925年)にはその本邸で亡くなっています。
同家を継いだ第16代徳川頼貞侯は、代々木上原邸には住まず、品川区上大崎3丁目に建てた豪華な西洋館(「パレス・クィーンエリザベス Villa Elisa」)に住んでいます。代々木上原邸がどうなったのかはわかりませんが、紀州徳川家が本邸として使用したのはわずか1~2年だったようです。
なお、大正5年の時事新報社「第三回調査全国五拾万円以上資産家」によると、久米民之助氏の資産がが百万円、徳川頼倫侯が一千万円以上となっており、10倍以上の差があったことがわかります。資産額が一千万円以上なのは、三井、三菱、住友、藤田、安田、古河、大倉等の財閥、前田、島津、毛利等の旧藩主の一部しかいません。紀州徳川家は旧藩主の中では前田、島津に続く第3位の資産額であり、当時の有数の大資産家であったといえます。


1936年頃(昭和初期)、紀州徳川家の代々木上原邸当時の航空写真
※青色の線は敷地範囲の推定(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館「住まいから見た近・現代の渋谷」を参考に設定)、面積は約62,500㎡(1万8千坪)GISで計測

紀州徳川家が代々木上原邸を売却した直後の地図を発見しました。1937年(昭和12)「火災保険特殊地図」に旧徳川邸が描かれています。


1937年頃(昭和12年)、旧紀州徳川家として描かれています。

●代々木上原邸の売却、区画・分譲
紀州徳川家は昭和の時代に入ると金融恐慌の影響等もあり財政が傾きます。昭和13年(1938年)、代々木上原邸を売却、処分します。代々木上原邸を購入、分譲したのは、目黒蒲田電鉄・田園都市課です。同社による分譲パンフレットが白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に保管されています。


白根記念渋谷区郷土博物館・文学館「住まいから見た近・現代の渋谷」p50から抜粋


1945-50年頃(終戦後)、区画・分譲後の航空写真
※青色の線は紀州徳川邸の敷地範囲の推定(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館「住まいから見た近・現代の渋谷」を参考に設定)、面積は約62,500㎡(1万8千坪)GISで計測

前出の「久米権九郎追悼誌」には、代々木上原邸の売却についても触れられています。

『その後、紀州家では悪質な家令がいて、主人の留守に襖絵を剥がして売ったりして、逐々東急に身売りし、東急では池を埋めて山を崩して分譲してしまったものですから、昔の面影は今は全く見られません。その時庭にあった能舞台は多摩川の遊園地近くに移され、これが戦災を免れた東京で唯一の能舞台として戦後の能界に大きな役割をはたしたのです。』

移築された能舞台については、後で触れたいと思います。代々木上原邸の建物は、西洋館とその周辺が残り、他に移築された建物がありました。
●移築された建物1(玄関)
昭和13年(1938年)に区画・分譲された代々木上原邸ですが、幾つかの建物は移築されるなどしています。
五島慶太氏は、昭和13年(1938年)に東横商業女学校(現、東京都市大学等々力キャンパス)を等々力に設立、開校は翌昭和14年(1939年)です。東京都市大学グループの祖・五島慶太翁生誕130年記念誌「熱誠」によると「校舎もこの背景にふさわしい瀟洒な木造2階建てとし、特にその玄関は代々木にあった紀州の徳川邸のそれを譲り受けて、そのまま移築したのである。」とあります。


紀州徳川家の玄関を移築した東横商業女学校の玄関

玄関部分のみですが、紀州徳川家の代々木上原邸の雰囲気は伝わってくると思います。そして、この玄関の近くに、迎賓館が併設されていたのではないかと想像できます。
なお、この玄関ですが、こちらのブログによると「昭和40年代に老朽化と鉄筋コンクリート時代の波に押されてついに解体された」ということですが、「当時の先生方のお話では、全校生自慢の玄関だった」「「仕方ないこととはいえ、解体は可哀相なことだった」と当時の教職員の方々は、この玄関を我が子のようにおっしゃいます」とあり、大切にされていたことがわかります。

●移築された建物2(一畳敷)
幕末から明治にかけ、蝦夷樺太を含む日本各地を歩きまわった松浦武四郎は晩年、畳一畳の書斎である「一畳敷」を神田に設けます。武四郎は自分の死後、この書斎を焼き払えと伝えるものの、その後、徳川頼倫侯が麻布本邸に移築、6畳茶室などを付け加えます。南葵文庫の裏庭に建てられた一畳敷の建物は、震災の被害を免れ無傷で残り、代々木上原の紀州徳川邸内に移築されます。「高風居」と名付けられたその茶室は、昭和11年(1936年)日産財閥の重役であった山田敬亮の三鷹の邸宅「泰山荘」へ再び移築されます。現在は国際基督教大学(ICU)において「泰山荘」の一部として保存されています。現在「高風居」は登録有形文化財(建造物)に登録されており文化財オンラインでも確認することができます。


ICU(国際基督教大学)の敷地内に移築された高風居

●移築された建物3(能楽堂)
能楽堂は久米民之助邸の一部として建てられたものです。前出の「久米権九郎追悼誌」によると能楽堂は多摩川園近くに移築されたとされています。Wikipedia多摩川園には以下のように書かれています。

『1930年代中頃には「どりこの坂」上の南側の園内に多摩川能楽堂が建設され、戦災で都内の能舞台が灰燼に帰した中での能楽復興の拠点となったが、1955年(昭和30年)頃に青山の銕仙会能楽研修所に移築されている。』

能舞台は、代々木御殿から多摩川園へ、その後、銕仙会(てっせんかい)能楽研修所に移築されたようです。銕仙会のWEBサイトには能楽研修所の写真が掲載されています。以下にリンクで貼り付けます。
東京文化財研究所のWEBサイトによれば、久米民之助氏邸の能舞台は大正4年に今中素友氏が能舞台観客席格天井四季草花極彩色を揮毫しています。


銕仙会能楽研修所

●残された建物(田中百畝氏邸 ⇒ 岩佐多聞氏邸)
前出の「久米権九郎追悼誌」によると『応接間の一部が、今京浜急行の田中社長宅になっています。』とあります。昭和30年代頃までは、現、岩佐多聞氏邸とその周辺は、京浜急行社長の田中百畝氏が住んでいたようです。その当時の様子がわかる航空写真を貼っておきます。当時は、西洋館と和館の一部が残されていたようです。この頃に比べると、現代は、さらに敷地が4分割されたことがわかります。
住宅地図を年代別にみていくと、昭和44年版までは田中邸であったことがわかります。間が空いて、昭和48年版から田中・岩佐と併記されています。ただし、敷地分割はなされておらず、和館と西洋館に分かれて居住していたのかもしれません。昭和55年版からは、岩佐多聞邸、コバルタージュ上原、田中邸の3つが併記されています。昭和55年頃から敷地が細分化され、各敷地に個別に家が建てられたようです。もちろん、西洋館部分は岩佐邸として存置されています。

 
左:昭和50年の航空写真 青色線が敷地範囲で西洋館、和館が並列して建っている。 右:現在の航空写真 赤色線が現在の西洋館の敷地範囲、西洋館のみ残され、和館のあった場所はマンションに建て替わっている。
出典:左右とも国土地理院地図

1991年3月東京都発行「東京の近代洋風建築」p170-171にには、旧徳川家迎賓館、大正初(1912頃)建築、設計者は「不明(帝国ホテルの設計者と同一人物と伝えられる)」とあり、特記事項に「一説にはF.L.ライトの設計ともいわれる。内部は戦災で焼失」と書かれています。
地図で見るとわかりますが、この辺りは区画された住宅地で、迎賓館といわれるような西洋館がポツンと残っているのはとても不思議です。どこからか曳家したのか解体して建て直したのかとも思えるのですが、元からここに建っていた建物だったのです。  久米民之助氏の邸宅、代々木御殿の西洋館として建てられ、紀州徳川家本邸の迎賓館となり、戦前に目黒・蒲田電鉄が区画・分譲しています。この過程を通じて、この西洋館は残され、110年以上この地に建ち続けています。


岩佐多聞氏邸「東京の近代洋風建築」p171から抜粋

編集: 日本建築学会 発行: 株式会社新建築社「総覧日本の建築第3巻」には、岩佐多聞邸(旧徳川家迎賓館)について、初田亨先生による以下の記述があります。すこし引用します。

『渋谷区上原の周辺には、江戸時代以来の下屋敷が幾つかあった。現在は日本近代文学館の前田家、雅号の松濤を地名に残す鍋島家、そして上原二丁目一帯を占めた徳川家である。徳川家は昭和初期に、五島慶太を通じて、200~400坪程度に区割りして分譲する。表通りから玄関まで延々と続いていた徳川家の屋敷は500坪足らずを残してすべて分譲され、わずかに木造の母屋と迎賓館だけとなった。戦後、進駐軍の接収が解除になり、現在の所有者の手もとに移った時、家主は当初、この洋館を取り壊そうとした。しかし、関東大震災にもびくともしなかった頑丈さゆえ、解体に20万円かかるといわれて取りやめたという。その後、借家とするために厨房などを増築したが、元は、16畳1室、8畳2室、6畳1室と洋室ばかりの純然たる迎賓館である。F.L.ライトの設計との声もあり、共通点もあるが定かではない。』


現代の航空写真
※青色の線は紀州徳川邸の敷地範囲の推定(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館「住まいから見た近・現代の渋谷」を参考に設定)、面積は約62,500㎡(1万8千坪)GISで計測

●接収について
「総覧日本の建築第3巻」によれば、この西洋館はGHQの接収を受けたことになっています。接収の期間は昭和20年~昭和26年、27年、28年あたりまででしょうか。1948年に米軍(United States. Far East Command)が作成した「City map central Tokyo Occupied Japan」では、上原2丁目に接収された住宅として「507」がプロットされています。地図の裏面には住所として「507 1177 Yoyogi Uehara-cho, Shibuya-ku」が記載されています。この住所は紀州徳川家邸の住所と同一であり、旧紀州徳川家の分譲地内の住宅であるといえます。
この接収の時期、そして、それ以前の昭和13年の分譲後にこの住宅を所有していた、または居住していた者は判明していません。

 
左:1948「City map central Tokyo Occupied Japan」表面 右:代々木上原周辺の拡大、507が岩佐氏邸と思われる。

●この西洋館(久米民之助邸西洋館、紀州徳川家迎賓館、田中百畝氏邸、岩佐多聞氏邸)の設計者
この西洋館の設計者は、不明(帝国ホテルの設計者と同一人物と伝えられる)であり、一説にはF.L.ライトの設計ともいわれています。ライトは帝国ホテル新館設計のために大正2年(1913年)に来日していますからもしかすると、という気もしてきます。しかし、ライトと断定する材料はありません。
ライトでないとすると、久米民之助氏が自邸の西洋館の設計を依頼するのは誰でしょうか。久米民之助氏は土木技術者であり、明治14年(1881年)に工部大学校を卒業し宮内省に入省、皇居正門石橋(二重橋)を設計しています。そして、明治19年(1886年)に設立された、造家学会(現、日本建築学会)創立者26名の一人です(日本建築学会120年略史,p33)。当時の超一流の工学者であり第一線の実業家であり、同士の邸宅の設計を行うのも限られた人物であったと考えます。ここからは、思い切り推測です。

帝国ホテルの設計者と同一人物とすると、ライトが設計する前の初代の帝国ホテルの設計者が考えられます。初代の帝国ホテルは渡辺譲氏によって設計されています。渡辺譲氏は明治13年(1880年)工部大学校造家学科を卒業、ドイツ留学を経て、海軍に入省します。明治44年(1911年)に海軍を辞し、翌年(大正初年)に、片山東熊氏、木子幸三郎氏と連名で竹田宮邸洋館の設計に携わっています。ドイツ留学の経験があり、この西洋館の設計者であっても不思議はないように思います。
久米民之助氏が代々木御殿を売却した後に移り住んだ上目黒の西洋館を設計したのは木子幸三郎氏です。大正初年当時は宮内省内匠寮技師であり旧竹田宮邸洋館等の設計に携わっています。1922年(大正11年)宮内省を退職し、木子建築事務所を設立していますので、上目黒の久米民之助氏邸西洋館はこの頃設計したことになります。独立前の宮内省時代に個人宅の設計に携わったと考えるのは無理があるでしょうか。
久米民之助箱根別邸は伊東忠太氏が仁王門(大正9年)等を設計しています(「伊東忠太建築作品」より)。伊東忠太氏は明治25年(1892年)に帝国大学工科大学を卒業、大正初年当時は東京帝国大学教授をしています。設計者としての可能性はありますが、「伊東忠太建築作品」には久米民之助氏代々木邸西洋館の記載はありません。また、作風も違うように思います。
専門家からは、セセッシオンの影響がみられる、と言われています。そうなると単純に中欧系の人かと思い、ヤン・レツル氏かなどどが思い当たるのですが、セセッシオンは大流行したので多くの建築家が影響されているようでもあります。なお、この西洋館、一説には、明治30年にヤン・レツル氏の設計で建てられたともされているのですが、久米権九郎氏によれば大正初年頃の建築ということになるので、設計者はともかく、建築年代の説については除かれていいのではないかと考える次第です。
推測なので、勝手なことを書きますが、もしかすると、久米民之助氏が自ら設計した、ということは考えられないでしょうか。または、民之助の次男、久米権九郎氏(久米設計創業者)はどうでしょうか。ドイツにも留学しています。権九郎氏は明治28年(1895年)生まれ、大正初年(1912年)当時は学習院中等科ですから、流石にそれはないでしょうか。
また、久米民之助氏とともに皇居造営に関わった関係者としては、後に民之助氏とともに日本土木会社に参加する新家孝正氏がいます。
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追記
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夢のあることを書きましたが、少し現実的なことを追記します。
高橋箒庵「萬象録」第3巻に「邸宅二万坪にて新築は内匠頭片山東熊氏が引受けて造られたる者にて、車寄の如きは宮家其侭にて、大広間は十八畳三間続き、下段の間は敷舞台と為り、床は二間にて高さ一丈七寸あり、純粋の御殿普請中に西洋館あり、要するに宮内省建築技師の理想を発揮して遺憾なし。」との記述があります。久米民之助氏は新宅開きの飾り付けの相談をし、高橋箒庵氏が訪問したときの記録です。直接、久米民之助氏から、設計者を聞いたのではないでしょうか。
また、1986,藤岡洋保「9060 木子幸三郎の経歴と作品について」1986-07 では、木子幸三郎の作品として「代々木久米氏邸」を掲載しています。これは、「日本建築士」昭和16年4月号「故正員木子幸三郎君略歴及作品」を原典としています。また、同論文には木子幸三郎氏と片山東熊氏の関係について「その上彼(注;木子幸三郎)は東宮御所造営局・宮内省で宮廷建築の設計に携わった。その時の上司は片山東熊であった。片山とは相当に近い関係にあったようで、宮内省での仕事だけではなく、神奈川県庁舎・韓国軍司令官官邸などを共同で設計している。」ことが記されています。
久米邸については、久米民之助氏が片山東熊氏に建築設計を依頼し、実質的に木子幸三郎氏が担当したのかもしれないですね。


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