紀州徳川家の迎賓館?  朝日向猛

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「東京の近代洋風建築」p171から抜粋

●はじめに
フェイスブック・ページに「レトロ・モダン建築」というのがあり、戦前ころまでの建物を紹介しあっていますが、投稿の1つに、渋谷区代々木上原2丁目にある岩佐邸がありました。2020年5月末で取り壊すという書き込みもありました。取り壊しの時期は同年9月に延期になったようです。
この建物、わたしは1991年3月東京都発行の東京の近代洋風建築p170-171に掲載されているのを見て知っていたのですが、同書には、旧徳川家迎賓館、大正初(1912頃)建築、設計者は「不明(帝国ホテルの設計者と同一人物と伝えられる)」とあり、特記事項に「一説にはF.L.ライトの設計ともいわれる。内部は戦災で焼失」と書かれており、また、地図で見るとわかりますが、現地は区画された住宅地で、迎賓館といわれるような西洋館がポツンと残っているのはとても不思議でした。どこからか曳家したのか解体して建て直したのかと考えていました。
ところが、フェイスブック・ページの投稿を契機に調べてみると、どうも、この土地には紀州徳川家が一時期本邸を構えていたようで、この建物はその一部であった可能性が出てきました。以下、推測混じりなのですが、調べてわかったことを書き残しておきます。

●麻布区飯倉の本宅と南葵文庫
明治になって紀州徳川家は紀州藩の中屋敷(今の迎賓館と赤坂御用地)に住んでいたが、その2年後、皇居江戸城西の丸が焼失した時に皇室に屋敷を献上し、麻布区飯倉の邸宅に移ったと言われています。※この辺りから戦中くらいまでの状況はこちらをご参照下さい。
明治5年(1872年)に田安徳川家に生まれた德川賴倫氏(よりみち、または、らいりん)は、明治13年(1880年)に紀州徳川家第14代当主・徳川茂承侯の養子になり、明治23年(1890年)に養父の長女と結婚、明治31年(1898年)に2年間のケンブリッジ留学と欧州視察を終えて帰国します。※この辺りの略歴はwikiをご参照下さい。

賴倫氏は明治32年(1899年)に麻布区飯倉町の邸内に図書室を建設。このとき竣工した建物が後の南葵文庫本館(後に旧館)です。旧館の設計は設計は石村金次郎と伝えられています。また、明治35年(1902年)4月に私設の図書館南葵文庫を設立、新館・事務所を建築します。新館を設計したのは山口孝吉氏です。明治38年(1905年)には書庫を増築します。新館、事務所、書庫とそれらを設計した山口孝吉氏については、藤岡洋保先生(東京工業大学名誉教授、近代建築史)が『コア東京』2019年12月号に詳しく書かれています。
賴倫氏は明治39年(1906年)8月21日に家督を相続、第15代当主、侯爵になります。明治41年(1908年)には文庫を一般公開しています。

南葵文庫の建物、右側にあるのが本館(旧館)ではないかと推測。

埼玉大学の谷先生が公開している「今昔マップ」で確認すると、明治42年測図の飯倉周辺に「徳川邸」があるのがわかります。この邸宅の北西部にあるのが南葵文庫だったのではないでしょうか。
邸宅北西部の建物が南葵文庫と推測

大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生、東京帝国大学附属図書館(以下、東大図書館と略す)を復興するため、頼倫は、大正13年(1924)にその蔵書の大半にあたる約9万6000冊を東大図書館へ寄贈し、南葵文庫を閉鎖。南葵文庫の建物自体は、新しい東大図書館の建物が完成する昭和3年(1928年)まで、東大図書館の分室として利用されたようですが、その後、旧館の部分を除いて、南葵文庫の建物は取り壊されます。南葵文庫についてはここに詳しく書かれています。
賴倫侯は大正14年(1925年)に52歳のとき、豊多摩郡代々幡町代々木上原1177番地(現在の渋谷区上原)の本邸で亡くなたとされています(wiki)。関東大震災後、本邸を郊外の代々幡に移していたのかもしれません。
賴倫の死去により、家督は長男である頼貞(よりさだ)氏に継がれます。昭和3年(1928年)東京帝大の図書館が完成、南葵文庫からの書物の移送が完了します。 昭和8年(1933年)11月には、南葵文庫跡地に鉄筋コンクリート3階建ての麻布麻中尋常小学校(現在の麻布小学校)の校舎が完成します。昭和8年までに飯倉本邸は売却されたと考えられます。南葵文庫旧館は、昭和8(1933年)年に別邸があった神奈川県大磯へ移築されます。玄関やベランダが増築し、建物は新しく「VILLA DEL SOL(ヴィラ・デル・ソル、「太陽の館」という意味)」と名付けられたそうです。昭和18年(1943年)に野村財閥の2代野村徳七の所有に変わり、昭和50年代に取り壊されるところを、熱海伊豆山温泉の旅館「蓬莱(ほうらい)」の女将が、由緒ある建物が失われるのを惜しみ、旅館の別館のホテルとして移築したそうです。現在は星野リゾートのレストランとして活用されているようです。この辺りの事情は和歌山県立博物館ニュースに詳しく書かれています。また、地域情報誌 ザ・AZABU第17号にも詳しく出ています。

●麻布区飯倉の本宅と南葵音楽堂
飯倉の本邸には、もうひとつ失われてしまった重要な建物がありました。徳川頼貞氏(よりさだ、または、らいてい)が設立した「南葵楽堂」です。頼貞氏は1892年(明治25年)に徳川頼倫の長男として飯倉本邸で生まます。1913年(大正2年)に英国に留学した頼貞氏はケンブリッジ大学音楽理論科に入学します。新進建築家ブルメル・トーマスが設計する音楽堂に感銘を受け、日本に本格的な音楽堂を設置することを志します。南葵文庫に講演堂を計画していた父・頼倫に講演堂と兼用できる音楽堂とすることの了承を得て、アボット・スミス社に7万円のパイプオルガンを発注します。
帰国後の大正5年(1916年)にブルメル・トーマスの設計図が到着、日本の気候風土に合わせるため、近江八幡在住のウィリアム・メレル・ヴォーリズに設計図の修正を依頼しています。大正6年(1917年)に設計図が完成、翌大正7年(1918年)に、南葵文庫本館の南側に音楽堂が完成します。南葵楽堂の地下室には南葵音楽文庫も設けられました。パイプオルガンは大正9年(1920年)に横浜港に到着、南葵楽堂に据え付けられました。
開設当時(1919年)の南葵楽堂の外観
※これらの写真や図面はウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計事務所株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所に保管されているそうです。

大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生、南葵楽堂は修復不可能とされるほどの被害をうけました。頼貞氏は再建を断念、昭和3年(1928年)にパイプオルガンを東京音楽学校に寄附し、同校の奏楽堂に設置されました。、昭和6年(1931年)に南葵楽堂は取り壊さ れました。 旧東京音楽学校奏楽堂についてはこちら、移設されたパイプオルガンについては同サイトのこちらをご参照下さい。
南葵音楽文庫は昭和8年(1933年)、慶應義塾図書館へ委託され、後に日本近代文学館で 昭和45年(1970年)から7年間公開されました。現在は読売日本交響楽団所蔵(非公開)となっている。平成18年(2006年)から平成20年(2008年)にかけ、慶應義塾大学のデジタル・メディアコンテンツ統合研究機構により、貴重書のデジタルアーカイブ化や資料研究が進められているそうです。公益財団法人 読売日本交響楽団に紹介されています。 南葵楽堂及び南葵音楽文庫については、こちらのブログ地域情報誌 ザ・AZABU第18号港区資料にも紹介されています。

●麻布区飯倉の本宅と一畳敷
幕末から明治にかけ、蝦夷樺太を含む日本各地を歩きまわった松浦武四郎は晩年、畳一畳の書斎である「一畳敷」を神田に設けます。武四郎は自分の死後、この書斎を焼き払えと伝えるものの、その後、徳川頼倫が麻布に移築、6畳茶室などを付け加えます。南葵文庫の裏庭に建てられた一畳敷の建物は、震災の被害を免れ無傷で残り、代々木上原の徳川邸内に移築されます。「高風居」と名付けられたその茶室は、昭和11年(1936年)日産財閥の重役であった山田敬亮の三鷹の邸宅「泰山荘」へ再び移築されます。現在は国際基督教大学(ICU)において「泰山荘」の一部として保存されています。現在「高風居」は登録有形文化財(建造物)に登録されており文化財オンラインでも確認することができます。

●頼貞氏の邸宅
頼貞氏は留学からの帰国後、芝区白金三光町(現在の東京都港区白金)の新邸に住んだとされています。大正10年(1921年)に夫婦で欧州外遊に出かけ、帰国後は東京府荏原郡大崎町(後の東京市品川区上大崎)の森ヶ崎新邸に住んでます。洋風の大邸宅を新築して「パレス・クィーンエリザベス Villa Elisa」と名付けたとされています。あちこちに邸宅をもっていたのでしょう。これらについてはすぐに調べきらないので、いずれ調べてみたいと思います。
※大崎の邸宅については、すこし詳しいことがわかりましたので「紀州徳川家の迎賓館?その2」に記述します。
※なお、Wikipediaには「東京府荏原郡大森町の森ヶ崎」と書いてあるのですが、おそらく間違いでしょう。大崎町の森ヶ崎と勘違いされていると思います。

●代々木上原の本邸「静和園」
紀州徳川家は飯倉の本邸を本拠地とし、南葵文庫、南葵楽堂といった当時超一級の文化を推進しています。しかし、飯倉の本邸は大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受けます。おそらく、関東大震災の後、本邸を代々木上原に移したのではないかと考えます。震災当時は第15代賴倫侯が当主でした。賴倫侯は大正14年(1925年)に代々木上原の本邸で亡くなったとされています。
跡を継いだ第16代頼貞侯は、家政改革を要請するが、金融恐慌や自身の豪遊などもあって財政は好転せず。大正14年、昭和2年、昭和3年と立て続けて、借金返済のために伝来の家宝や什器などを売りに出しています。また、昭和8年、昭和9年にも売り立てをしたようです。売り立ての目録はこちらに紹介されています。
さて、代々木上原の本邸の位置ですが、再び、埼玉大学谷先生の「今昔マップ」登場です。今度は昭和20年測量の地図ですが、代々木上原には「徳川邸」が記載されています。徳川邸の南には有名な「前田侯爵邸」も書かれています。また、代々木上原駅の北側、いまの大山町あたりには「大山園」が記載されています。大山園も一時期、紀州徳川家が所有していて、その後、分譲したときに「徳川山」を用いたようです。よく、上原の紀州徳川本邸と大山の徳川山(大山園)を混同した記載があるのですが(特に不動産広告サイト)、これは別物であり、勘違いだと思います。


代々木上原の本邸は「静和園」とも呼ばれていたようです。清和園の外観写真などは見つけられていないのですが、昭和8年の売立の目録「昭和8年発行 静和園蔵品展覧目録 代々木上原 静和園に於 徳川侯爵家別邸 御蔵品入札高値表付」に挿入図があって、建物と庭園らしき写真が掲載されています。もしかするとこれが外観の一部なのかなと考えたりするのですが、いかがでしょうか。
静和園蔵品展覧目録に掲載された写真

こうした売立に加え、紀州徳川家の財政再建に関して協議等もあり、昭和13年(1938年)、家職の中松真卿、土岐嘉平、林桂は代々木邸を分譲地として売却することを決定したようです。1936年に陸軍が撮影した航空写真、1945~50年にかけて米軍が撮影した写真を比較すると、分譲前後の様子がわかると思います。下図の青線囲みが代々木本邸の敷地(推測)です。戦後は敷地内が何本もの道路によって区画されているのがわかります。
※この区画・分譲については、すこし詳しいことがわかりましたので「紀州徳川家の迎賓館?その2」に記述します。



●代々木上原の本邸「静和園」の迎賓館?
上図の赤丸のところですが、これが、冒頭の写真「紀州徳川家の迎賓館?」として2020年時点まで現存していた建物部分です。さて、どうでしょうか。1944年にも建物らしきものが写っています。この建物の一部に迎賓館が建っていたのかもしれません。迎賓館部分のみを残して、分譲地内に組み込み販売したのでしょうか。残念ながら、いま時点でそこまで調べられませんでした。
推測に推測を重ねますが、大正初年頃の建築だとすると、当時この代々木上原の土地は誰が所有していたのでしょうか。明治30年頃の地図には「久米邸」と書かれています。昭和4年の地図では「徳川邸」に変わっています。この間に紀州徳川家が購入したものと考えられます。久米民之助氏の次男、権九郎氏(久米設計創業者)の記録によると大正10年頃、紀州徳川家に譲渡したことになっています。
なお、大山園については、青木周蔵⇒(大正2年)鈴木善助⇒徳川賴倫侯⇒山下亀三郎⇒(昭和6年)代々木大山分譲地、と変遷したことがわかっています。紀州徳川家は大正年間に代々幡村一帯に地所を集めていたのかもしれません。もともと、松濤も紀州徳川家の下屋敷でしたし、代々幡村一帯に戻そうとしていたのかもしれません。
代々木上原の土地を大正初年までに紀州徳川家が購入し、ここに邸宅と迎賓館を建設したとも考えられます(推測)。迎賓館が大正10年以前に建てられたとすれば、久米民之助氏が自邸の西洋館として建てたことになります。そのとき、迎賓館の設計を誰に頼むでしょうか。F.L.ライトは1913(大正2年)に来日してますから、もしかすると、その説もあり得るのかもと思えてきます。紀州徳川家は、南葵文庫等に見るように本格的で最新のものが好みのようにも思います。当時の最先端であった米国の建築家に依頼することもあったかもしれません。または、ライトの弟子とされる遠藤新、その後輩で水戸徳川家の邸宅を設計している土浦亀城なども考えられるかもしれません。想像は膨らみますが、外観を見る限り、中欧風が強いデザインのようにも思えます。

●所有者について
昭和13年(1937年)代々木上原の本邸の売却後、紀州徳川家はどこに移ったのでしょうか。第16代当主頼貞氏は、東京都杉並区天沼三丁目725番地の自宅で死去(61歳)とされています。代々木上原の本邸は、区画されバラバラに売り払われたのでしょう。東京の近代洋風建築をみるとわかるのですが「静和園」の迎賓館に居住していたのは岩佐多聞氏です。東京の近代洋風建築は1991年発行ですから、そこから数えても30年は同氏が住んできたことになります。わたくし不勉強で知らなかったのですか、もしかすると、この方は、ドラッカー「イノベーションと企業家精神」にも紹介されている方でしょうか。すこし引用してみます。

(引用はじめ)
「1965年以降日本では車の普及に合わせて道路の舗装が急速に推進された。車はスピードを出せるようになった。しかし日本の道路は基本的には10世紀のままだった。二台の車がすれ違うのがやっとなほど道幅が狭く、死角のあるカーブも多く数キロごとにいろいろな角度で交差していた。そのため特に夜間は自動車事故が増えた。マスコミや野党は対策を要求したが、道路をつくり直すわけにはいかなかった。それでは20年かかる。安全運転を呼びかける大がかりな広報キャンペーンも、ほかのあらゆる種類のキャンペーンと同じように効果はほとんどなかった。この危機的な状況をイノベーションの機会としてとらえたのが、岩佐多聞という若者だった。彼はビーズ状のガラス球があらゆる方向からの光を反射する視線誘導標をつくった。こうして日本の自動車事故は大幅に減った。」
(引用おわり)

どうでしょうか。この本に出てくる若者(岩佐氏)が、「静和園」の迎賓館の所有者の岩佐氏と同一人物でしょうか。ちょっとわからないですね。

●この建物(紀州徳川家の迎賓館?)が掲載されている書籍等
この建物が掲載されている書籍として、財団法人住宅総合研究財団(現、一般財団法人住総研)「すまいろん」季刊2007秋号(通巻第84号)がありました。同書中に、川上悠介先生が「渋谷区に残る洋風住宅について」を寄稿されています。この寄稿では、歴史的建造物の現存状況を目視確認し、文献調査により各建築物の建築年代を特定しています。
この建物(紀州徳川家の迎賓館?)は50ページに写真-5として掲載されています。その解説は「写真-5は、改修が大きく当初の仕様とは言い難い。屋根は、切り妻屋根の端部を削り、スレート茸きとしているが、新建材となっている。外壁も大きく変えられており、当初の様子を窺い知ることはできない。しかし、軒下部分や出窓のような意匠から当時の面影が残されている。」と記載されています。専門家から見て、改修が大きいことがわかります。前述の「東京の近代洋風建築」には「戦災で内部を消失」したことが記載されています。戦災に遭い、その後の改修で内外部ともに改修されたことが伺いしれます。また、51ページ「表-1 渋谷区内に残存する洋風住宅13棟の外観形状」をみると、この建物(紀州徳川家の迎賓館?)は建築名「A」と推測できます。建築年は大正初とされ、設計者、施工者は未記載です。
「東京の近代洋風建築」ではF.Lライトの名前も伝聞として紹介されているのですが、さすがに専門家は、そこまで記述されていないですね。

●おわりに
尾張徳川家は公益財団法人徳川黎明会、水戸徳川家は公益財団法人徳川ミュージアムがあって、相応のものを伝えているように思えます。徳川宗家にも公益財団法人徳川記念財団があります。
こうしたなか、紀州徳川家は戦前から政治や文化でのご活躍の場面が多く、戦前の文化を支え超一流のパトロンでもあり貴重な文化を我が国に残してくれたのだと思います。実際、南葵文庫や南葵音楽文庫の貴重な資料は私設で公開していますし、震災後は、東京大学図書館などに寄付し、公共のものにしています。それらは、東京大学図書館、読売日本交響楽団、東京芸大に残されています。なにか、ノーブレスオブリージェというか、気前がいいというか、良いものを集めて公にする、みたいなことをしています。などと考えていたら音楽の殿様・徳川頼貞 〔1500億円の〈ノーブレス・オブリージュ〉〕という書籍が出版されているのですね。知らなかった。いずれ読んでみます。
建物も残っていれば、歴史家や建築家が研究対象にするのでしょうけれども、紀州徳川家の関連の建物はほとんど残っていないので、これまで研究の対象になってこなかったのだと思います。ここで取り上げた迎賓館も設計者すら不詳です。でも外観を見る限り、大正時代頃の質の高い建築のようですし、もしかすると、F.L.ライトのような超一流の建築家のデザインではないかと思わせるところがあります。
この建物が失われてしまうのは残念ですが、記録や記憶によって残ってほしいなと思います。

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